「空手がスポーツとして発展」
義珍の三男、義豪を中心に体育的な空手
(足幅を大きく開き腰を低く落した
筋肉運動主体の空手)が大学生の間で
定着した頃、東大生達から、
空手も剣道や柔道のように、
試合をすべきだという意見が
出てきました。
学生達の意見とは…「基本稽古や型の
稽古を何の為にしているのか?
…野球、陸上競技、剣道、柔道、
それぞれ試合に勝つ為に
練習をして、お互いに切瑳琢磨
しています。」
「何か目標が無ければ、練習をする
意義が見いだせない…
剣道や柔道は試合をする事で、
一般に普及したので、
空手を発展させる為に試合をすべきだ」
学生達は、剣道の面と胴にボクシングの
グローブを組み合わせて、
試合をしたいと、
義珍に組手試合の許可を申し出
ましたが、
義珍は「それは、空手ではない、
空手に似た別のものだ。」
「空手に先手なし」
試合方式を取り入れたら勝負を
競わなければならなくなり、
勝負は先手必勝になる為、
力みが生じてしまい、
空手が力と力がぶつかり合う
スポーツ競技になってしまう。
「空手は、自己鍛錬の為のものであり
他人と優劣を競うものではない、
試合は許さない」
富名腰義珍は、空手の組手試合を
強く反対して、
東大での空手の指導を辞めました。
昭和2年(1927年)京都帝国大学
柔道部は、宮城長順(剛柔流創始者)を
招待して空手の講演会を開催しました。
その中に柔道四段として参加した、
山口実美(のちの剛玄、
ザ・キャットの異名で剛柔流空手を
世界に広めた人物)が居ました。
昭和3年(1928年)東大空手部は、
摩文仁賢和(糸東流創始者)を招き、
同年5月には防具を付けた空手試合を
開催しました。
昭和4年(1929年)立命館大学に
入学した山口剛玄は、空手研究会を
組織しました。
当時の参加者には、柔道経験者、
剣道経験者、ボクシング経験者が多く
在籍して、防具組手(当時は手組)
自由組手の研究を進めていました。
その中にボクシングと
ウェィトリフティングの経験者だった、
曹寧柱(極真空手創始者の大山倍達に
空手の指導をした人物)も参加して
いました。
柔道経験者は、柔道の組手に
空手の当て身を取り入れた戦法で戦い、
剣道経験者は、竹刀を拳に変えた戦法
で戦い、ボクシング経験者は、
ボクシングに蹴りを取り入れた戦法で
戦う…若者達の手により、
空手のスポーツ化が急激に加速して、
空手発祥の地、沖縄にもスポーツ化の
波が津波となり広がって行きました。
空手発祥の地、沖縄でも各流派が
協議をして、体育的な空手の基本動作を
まとめた「基本十二段」を制定しました。
それにより沖縄でも空手のスポーツ化が
急激に進み、普及して行きました。
明治、大正、昭和の激動の時代を生きた
青年達のエネルギーによって、
空手が打撃系の競技へと変化し、
世界のスポーツへと発展して行きました。
【真明流アカデミー】真明魂
知多半島の阿久比町を中心に
空手教室をやっています。
武術の極意秘伝の身体操作を
研究開発しています。
3才から60才代まで幅広い年齢が
空手を楽しんでいます。
真明流合氣空手術
総師範 飛龍(ヒリュウ)
真明流アカデミー
事務局 0569-59-0652