「唐手から空手」
琉球の伝統武術
「ティー(手)」は、
18世紀に活躍した
武術家の佐久川寛賀
(通称「トゥディー(唐手)
佐久川」空手の祖とされている)
により琉球全土に知られる事に
なりました。
中国の武術家公相君
(クーサンクー)に師事した
と伝承されています。
公相君(クーサンクー)が
伝えたとされる武術が
組合術であったとの
古文書が見つかり、
現代の打撃での空手ではなく
柔術に近い武術であった為、
佐久川を空手の祖とする事を
疑問視する見方がありますが、
私は空手が打撃だけではなく、
組み技や崩し技もある総合武術
であったと信じていますので、
トゥディー佐久川が空手の祖
であると信じます。
公相君(クーサンクー)の
伝えた武術が決して相手を
傷付けない技であったと
伝えられています。
相手の攻撃を素早く交わし
相手の手を取り軽々と
片手でほうり投げてしまい、
しかも地面に叩きつける
のではなく、怪我をしない
ように転がし相手の攻撃を
無力化してしまう武術
「トゥディー(唐手)」
公相君(クーサンクー)は、
力自慢の力士達が相手でも
片手で軽々とほうり投げて
いたと古文書に記されています。
凄技の武術(唐手)が、
公相君から佐久川に伝承され、
その愛弟子である松村宗棍に
受け継がれ、
松村宗棍が中国、薩摩に
留学した際に、
中国拳法や示現流の猛者達と
交流と死闘を積み重ねて
「トゥディー(唐手)」は
完成しました。
松村宗棍は、身分に関係なく
沢山の弟子を育成しました。
弟子の中には、
「ピンアン(平安)」の型の
創作者、糸洲安恒もいました。
糸洲安恒は、日本本土で
講道館柔道が学校の教科に
なっている事を知り、
「トゥディー(唐手)」を
沖縄の学校で教科になる
ように尽力しました。
そして「唐手」を
トゥディーから
大和読みで「カラテ」
と読むように変えました。
1901年(明治34年)
首里尋常小学校で体操科の
一環として唐手が採用
されました。
1903年(明治36年)
徒手空拳から「唐手」を
「空手」としました。
2年後の1905年
(明治38年)沖縄で
「空手」が中学と師範学校
で体育の正課として
採用されました。
空手が広く一般に普及する
過程で相手の攻撃を
素早く交わし
相手の手を取り軽々と
片手でほうり投げる技
「取手」の習得まで至らず
初歩の技である打撃のみが
一人歩きして空手は打撃の
格闘技だと一般的に普及して
しまったのではないかと
推測します。
空手の型には、打撃の解釈と
取手の解釈が存在します。
人間の身体には、年齢に関係なく
野生的な身体能力が潜在的に
誰にでも備わっています。
現代人が常識だと決めつけて
いることが、実は自然界では
非常識だったりします。
もっと頭と心を柔らかくしたら
面白い人生が開いている
かも知れません。
【真明流アカデミー】真明魂
知多半島の阿久比町を中心に
空手教室をやっています。
武術の極意秘伝の身体操作を
研究開発しています。
3才から60才代まで幅広い年齢が
空手を楽しんでいます。
真明流合氣空手術
総師範 飛龍(ヒリュウ)
真明流アカデミー
事務局 0569-59-0652